木原滋文の島人コラム Vol.16

 

母校への思い・・・自分史風に (2)
「小学校の卒業写真から」

(2) 小学校の卒業写真から

前回の写真から三年しか経っていないのに、こうも変わるものだろうか。
ややセピア色に変色しているのは同じだが、撮影の方法、場所の違いに気がつく。
最前列に先生方が十四人座り(それもパイプ椅子ではなく、職員室から運び出したようだ)その後ろに、男子、左半分に男子よりやや少なめに女子の順で、ひな壇風に並んでいる。
私は、最上段にかしこまった顔をして立っている。
今数えてみると、男子四十八人、女子二十四人、さらに当日ご不在の校長先生、養護の先生、欠席だったのだろう、男子四人が別枠で写っている。
入口は見えないが、木造校舎の正面玄関の屋根が見えている。
これだけでも、三年前とは大きな変わりようだが、なんと言っても、子どもたちの人数と服装の変化である。
女の子は四人増えただけだが、男の子は二十人も増えている。
それに服装だ。
卒業写真だからというわけではないと思うのだが、男の子は全員詰襟、女の子は白いネッカチーフを結んだセーラー服姿である。
先生方も正装しておられる。
男の先生は上下の背広、女の先生方は黒い礼服だ。

児童数が増加したのは、いくつかの理由がある。
当時営林署の事務所がかなり山の上の方にあって、そこに数家族が暮らしており、その子どもたちのために、宮浦小学校岳分校があり、高学年になると本校に通学するようになっていたらしい。
それに営林署、警察署など国や県の出先機関に勤める職員の子どもも、何人かいる。
また、いわゆるUターンの家族もいるようだ。
なにしろ、私たちの年代では兄弟五〜六人というのは普通だったから、当時の親の子育ては大変だったろうと思う。
服装がよくなったのは、特に経済状態が好転したのではなかったであろう。
子どもに恥ずかしい思いはさせたくない、人並みのことはしてやりたいという程度の無理はできるようになっていたのではないだろうか。昭和二十八年三月のことである。
奄美群島が復帰することになり、それまで戦後日本の最南端だった屋久島がそうでなくなった年である。

それはさておき、なぜ宮之浦にある小学校の校名が「之」を抜いた宮浦小なのか。(中学校もそうだが)
私の両親の時代から宮浦尋常高等小学校(一時国民学校だったが)なのだ。
先日聞いた話だが、楠川小学校と統合されたとき、「之」が抜かれたと、いかにももっともらしい説があるとのことである。
少なくとも、私の卒業証書には「上屋久村立宮浦小学校」と書かれており、その時楠川小学校があったことは言うまでもない。
ということは、この説は誤りであるのだが、宮之浦にある小学校が、なぜ宮浦小なのか、依然として私にとっては謎なのである。

 

●このページのトップへ↑

ホーム > 木原滋文の島人コラムINDEX > 島人コラム Vol.16